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真珠採り

2011, 11, 13 日曜日

『あのとき言えなかった、ありがとう』


子供の頃は貧乏でした。
父親も母親も地方から出てきた集団就職。大阪で住み込み丁稚奉公をしていました。
見合いで結婚、僕と妹が産まれました。
下にどぶ川がある長屋で僕は育ちました。

父親は大工、母親は家で松下工場のテレビ部品ねじの取り付けの内職。学校から帰ったら母親が聞いていたラジオからはラジオ大阪の『円鏡の歌謡一直線』が聞こえてました。

月に一回、駅前の中華料理屋に家族4人で行って、僕は焼き飯を食べるのが楽しみでした。
なんで焼き飯を食べるのかと親に聞かれたときに、「だって安いやん」と答えたのを覚えています。

僕が中学に入った頃。今思えば軽い反抗期だったと思います。
勉強のためにと机に付ける蛍光灯のZライトを買ってくれることになったのです。

電気屋さんに行って、当時出始めのインバーターの9980円のものと従来型直管蛍光灯の4980円のもの。僕は4980円のにすると言ったのですが、商品を包んでもらって帰る段になって母親が「おとうちゃんが高い方にしてくれたで。」と僕に言ったのです。

今思ったらなんでそんなことをしたのかわかりませんが、僕は反射的に「なんでそんなことしたんや!俺は4980円のでいいって言うたやん!替えてきてや!さっきのに!替えてきてや!」
喜んでもらえると思っていた父親が、商品をレジの方に持っていき、店の人にお願いしてもとの安いやつに交換してもらっていました。

本当になんでそんなことをしたのかわかりません。でもなんだか腹が立って。いつも「うちは貧乏だから」と何も買えない家でした。それなのに僕の意志を無視して、安いのでいい、それで我慢するからと思っていたのを裏切られた感じがしたのかもしれません。

母親はハンカチで涙を拭いていました。決してうれしくて出た涙ではなかったはずです。


それからしばらくして、僕は慢性腎炎と診断され、修学旅行にも行けずに出席点数が足りないために行きたい高校よりずっと下の高校に進学しました。それでも公立でなければ学費が払えなかったでしょう。

そのまま大きな学校には進学することができずに専門学校を経て社会に出ました。


時が流れ、有名大学を出ていないことがこんなに社会に不利なのかと思わされることも多数でしたが、頑張って仕事して、今遅ればせながら資格も順次取り始めています。いっぱしのおっさんといわれる年代に突入しました。
本当はもう結婚してる予定だったのですが、結婚しようと言っていた人に去られてからはや10年。

妹は十年ちょっと前に結婚、娘はもう中学に入りました。母親は孫の顔が見たいと言っていましたが、外孫でかんべんしてもらうとします。


僕はこのまま生きていくでしょう。父親もすでに痴呆が来ているのか会話が成立しにくくなりました。
親が死ぬまでは嫁の来手もなさそうです。
母親はまだしっかりしていますが、それでも高齢です。


とうちゃん、ごめんな。
悪気はなかったはず。素直に喜べばよかったんだと、今になって思う。
誰一人知り合いのいない土地に熊本からやってきてよく頑張ったと思うよ。

かあちゃん、ごめんな。
内孫抱かせてやれそうにない。
あんたも石川から出てきて、その後出てきた自分の弟たちの面倒も見て大変だったと思う。尊敬するよ。
がんばって美味しいもんいっぱい食べさせてやるからな。


ありがとうなんて言えない。
ごめんな。
ほんとうにごめんな・・・

14:03:07 | |

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