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失格

2010, 02, 26 金曜日

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自分の言いたいことを私は何も言わない
自分のやりたいことを私は何もできない
自分の為に泣いても人の為には泣けない
主義・主張を叫んで外を歩く勇気なんかない
ひねもすベッドに寝てるのは病人か赤ん坊
何もかもが嫌になるにはまだまだ若すぎる
誰かの喋る言葉で心なんて弾まない
明るく元気だけが取り柄の女にはなれない
他人の視線ばかり気にしてる人を認めない


時々とんでもなく空虚感が襲ってくることがある。
心理学とか病理学では「それは××で・・・」などと名前がつけられるのだろうけど、一応まだ日常生活を送れているのだからよしとするつもりである。


この空虚感はいつもというわけではなく、ごくごくたまに感じるだけだった。
そんなことはみんなあるはずだし、別段おかしいことでも自慢することでもない。そう思ってた。

僕の周りには誰かいて、そして僕の周りには誰もいなかった。

小学校の時から常に人の輪の中心にいた。
モテたとか人気者だったというわけでは特にない。
とにかく、他が思いつかないことを考えて、面白いことを言って、派手なことをしてると、みんな寄ってきた。
小学校の卒業アルバムには『おおわがクラスのアイディアマン』と肩書がついていた。

級長や委員も何回もやった。
人のやらないことも率先してやった。別に正義感とかくそまじめだったわけじゃない。他の人がやらないことは、そのやらない人には知り得ないことでもあるし。そう言うのが楽しかった。逆に、誰もがやってることはあまり興味が持てなかった。別に僕じゃなくてもできるんなら、やらない。

傍目に見たらあまのじゃくに見えたかもしれない。実際そうではあるが。

それでも、何かのタイミングで心に間隙を持っていた。
親に愛されなかった気持ちもどこかにはあったと思う。


中学のとき、あまりにも根をつめすぎて病気になった。
発見がもう少し遅ければ死んでいたといわれた(前例があったらしい)
内臓の病気は怖い。そう脅された。
得意だった水泳も、走ることさえも禁止された。

体育授業が見学で欠席扱いとなり、平常点が不足したので、志望校を落とさざるを得なかった。

そのころから周りと一緒にできないことが増えた。自分が一人でいる時間も。

太宰治の『人間失格』を読んで、まんま自分だなと思った。

時期というのもあるんだろう。
ちょうどそう言うことを考え始めるのと重なったのかもしれない。
そのころから、具体的な空虚感を自分の中でもてあましていた。

一番大切なものはこの貧欲な私
一番厄介なのもそうデタラメな私
好きな人に他に守るものあっても構わない
だけどひとり夜の渋谷で待つのは好きじゃない
梅田 なんば 心斎橋 元町 西ノ宮
あんなに好きだった街ももうとっくに忘れた
チャカ・カーンを気取って歌ってた “Whatcha gonna do for me”
意味も知らずに涙を流した “Whatcha gonna do for me”


ちょっとグレた。

もっとグレた。

警察のご厄介にはならなかったけど。

努力することで満たされるはずだった隙間は、永遠に埋まらなくなった。


高校を卒業するころにはようやく病気もほぼ治ったような状態になった。3年間運動していなかった僕は、筋肉が落ち、逆に背が伸びて体重が45キロのひょろりとした身体になっていた。


それでも20代のころは職場が同年代ばっかりというのもあって、結構楽しくやっていた。
朝食わず、昼抜いて、夜は酒とつまみ。で、みんなを引き連れてカラオケ。
そんなことが楽しかった。


仕事にあぶれ、やっと拾ってもらった事務所から仕事に来るようになって、またしんどくなった。
何の技量も持っていないのに突然放り込まれて1から勉強した。
家でも調べ物したり本を買い込んだりして毎日2~3時間しか寝なかった。

そんなときにネット上の日記というのがあることを知り、飛びついた。日記なんて書いたことも無かったのに、今日あったことや自分の考えを言葉にすることで、いろいろ頭の中が整理されたりするのが気持ち良かった。
そのまま流行り始めたブログに移行することになり、読者もついた。ネット上だけど友達らしき関係もできた。毎日更新を自分に義務づけた。

少なくとも、その時は空虚感というものはあまり感じていなかったと思う。
ただ毎日が忙しく、仕事とプライベートで忙殺されて行った。

ある日、金になるわけでもない記事を書き続けることに疲れて、いったん休止宣言をし、最近はブログもぼつぼつとしか書かないようになった。

今は最近台頭してきたtwitterを眺めるようになった。
そこでも仮想のつながりが広がって行った。


携帯電話でメールを見ながらしか歩けない若い女を見て、なんて頭悪いんだろうと思った。いやそれは今でも思ってる。歩きながら視界を自ら遮ってるなんて危ないし。

でも今はちょっとその感覚がわかる気もする。
ブログではリアルタイムに会話的な掛け合いは難しい。
でもtwitterであれば(モバイルで受信するという前提で)ポーリングによる呼び出しが可能だし、それはあたかもメールの着信と同じ効果をもたらす。その上メールのような1対1ではなく、フォローしている人たち全部が流れてくるし、フォローされている人の端末にも届いているはず。
メールのやりとりで多人数をこなそうと思ったらそれこそ寝る暇も無く風呂にも持ち込まないと難しい。でもtwitterでは可能(なように見える)。


ああ、同じなんだ。

みんなどこか満たされない想いを持ってるんだ。
わかりきった事書くなよですが、たぶん自分がどこに存在しているのか実感できない自我が漂っているんだ。

“確認”するという儀式を日常化しなければとたんに宙に浮いてしまう。

プリクラとかアドレスの数を増やすことによって安心している。
数が多ければ多いほど自分が周りから必要とされているように錯覚する。

自由だ権利だと大人から自由に漂うようにさせられた若い自我が、自分を束縛する関係性を無意識に求めているんだ。
そこには実は自由と対局のものがあるのだけれど。

それは衣食足りて初めて感じる感情であり、今日の食い物にも困る生活をしている国ではあり得ないだろうと思う。

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眠れずにテレビをつけ煙草を吸えばやるせない
ひどい仕打ちに泣いたとしても夜はゲラゲラテレビ漬け
趣味は何ですかと聞かれて旅行などと答え
外国にも何度かなんて格好つけて見せる
姑息な笑顔浮かべて指先を噛んでいたい
約束を踏み付けても粋な女気取りたい
車にはねられた人を見過ごしたことがあるかい ?
ふしあわせな人を見て笑ったことがないかい ?


本当に周りと一体化する充足感を味わうことができるとすれば、それこそエヴァみたいに人類が全部融合するしかないのだろう。

社会が成熟(?)し、成長産業というものがなくなり、自分がどこに向かって歩けばいいのか、どこに向かって希望を持てばいいのかわからない時代に突入した国。の将来を担う世代。
時代が進めば進むほど、自分より後の世代が出てくれば出てくるほど、不安が大きくなるのだろう。

もちろんその不安を笑い飛ばすぐらい腹の据わることがいわゆるオトナになることなんだろう。
もしそれができずに漂う人間が増えて行ったとして。

一番幸せなのはどんなときなんだろう。
いや、どんなときだったんだろう。

母親の腹の中にいるときが・・・
いや違う。
人生で一番幸せなのは受精した瞬間なのかもしれないな。
数億分の一でそこに誕生した、他のではなくて自分というゴーストが発生した瞬間。それ以降は、わずかの幸せを感じる瞬間をピリオドに、ただその間の苦労をつなぎ合わせて死ぬまで耐えることなのかもしれない。


もっときれいになってもっと上手に遊びたい
もっとまじめになってもっとたくさん学びたい
たったこれっぽっちの生きざまをひとり振り返り
四の五の理屈を言ってる私を愛したい


そんなアホ人生を送ってきたわけだけど、まだ『ライ麦畑でつかまえて』は読んでなかったりする。

失格 橘いずみ

2:00:19 心と体 | |

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